AIが翻訳できないこと。それは「失敗する勇気」


AIが翻訳できないこと。それは「失敗する勇気」

TOEIC対策は「ムダなお勉強」なのか?

つい最近、社内英語化を進めている企業で、その取り組みについて数名の方と個別にミーティングさせてもらえる機会がありました。今回はそこでボクが感じたことを整理したいと思います。

結論から言うと、どんなにAIが進歩しても、「失敗する勇気」は翻訳できない。人が他者に何かを伝える時に一番大切なのは、勇気を出して声を出すというリスクをともなう行動なんだけど、TOEIC対策だけじゃあまり役に立たないどころか、英語学習者の足枷になっている気がする。

説明します。TOEICって四択だか三択の中に必ず答えが一つあるじゃないですか。当たり前ですけど。でもですよ、実際に人間と人間がする会話で最適解が絶対一つあるって状況はなんだか変じゃないですか?現実には答えは無数にあるわけで、いや、ゼロもありえるかも。ボクはTOEICにケチつけたいわけじゃなくて、受験対策に没頭しすぎると、コミュニケーションの本質を見失うんじゃないかといいたいんです。TOEICの点数はほとんど喋れなくても上げられるし、TOEICの勉強はすればするほど、実際には全然しゃべれないままなのに、あたかも英語ができるようになっていると自分も周りも錯覚してしまう。

それどころか、TOEICの勉強をすること自体が目的になってしまって、肝心のスピーキングやライティングをやらないための逃げ道として使われているような気がします。ん~、一つの目安としては有効なんだろうけど、なんて言えばいいんだろ?TOEIC対策って、根本的にはムダなのかも?努力している人たちにたいして思いやりのない言葉かもしれません。以前、似たようなことを言って音信不通になってしまった人もいました(苦笑)ただ、その努力できる才能を単なる点稼ぎではなく、本当に英語で意思の疎通ができるようになる方向に使ったほうが、結果的には得られるものが多いんじゃないかと言いたいんです。だけど受験制度の弊害かな、けっこう頭のいい人たちでも、ハイスコアを目指すだけの勉強を頑張っている人はたくさんいるんですよね。本人がそれに納得して勉強しているんならいいんですが。

ここで考えたいのは「どうしてTOEICの点数稼ぎに流されてしまう人たちがこうも多いのか」です。これって多分「TOEICの勉強をすれば、自分は傷つかないで努力が評価される」のが理由の一つでしょう。もし本当に英語でのコミュニケーション能力を向上させたかったら、声を出して生身の人間と会話をしなければいけません。「相手に通じなかったらどうしよう。発音が悪くて聞き返されたらどうしよう?周りの人にはどう思われるんだろう?自分だけ英語を話してみんなに笑われたり仲間はずれになる!恥ずかしい!ぜったい無理!」日本語ではできることが英語ではなにもできなくなる劣等感。英語で喋るときは、ものすごい不安に押しつぶされそうになります。でも失敗は、外国語でのコミュニケーションを試みる上で絶対に避けて通れない。それが怖いから、一言も喋らなくても評価される、心理的に安全なTOEICの勉強に逃げてしまう人が大勢いるんだと思います。(TOEICじゃなかったけど、ボク自身もそこを通って来たし。)

英語で失敗することが怖いのは、私たちは他者からの評価に脆いからでしょうか。スポーツとかでの失敗から生じる肉体的な苦痛も怖いけど、コミュニケーションの失敗からくる精神的な痛みはまた別の恐怖があります。しかも人は一人では生きられないから、他者からの評価に敏感になるのは進化論的には仕方がないですよね。英語を上達させるために超えなくてはいけない壁はそこです。他者からの評価に怯える自分をいかに乗り越えるか。未来に確実な答えがないのはみんな同じ。だけどいつも安全なTOEICの範囲内で勉強していると、誰かが用意してくれた答えしか探せなくなってしまう。自分自身の答えは永久に見つけられない。なぜなら、たとえそれが間違っていようがなんだろうが、自分の意思で問いを発して、自分固有の答えをつくることを放棄しているからです。

最初は英語学習の意義って「大企業病へのワクチン」だと思ってました。(組織の目的が海外展開ならば)英語が組織の公用語になったら、外国人も含めて多様な経歴の人がコミュニケーションを取りやすくなって一つの組織として、まとまり易くなると考えたからです。

でも今はTOEICも含めて、英語学習って「失敗する勇気」を育てる機会の一つだと思います。テクノロジーが進歩すれば言葉の問題は簡単に解決されると言う人もいます。ただし、AIが全て翻訳してくれると思っている人は残念ながら気づいてないのかも。自動翻訳の精度はあがっているけど、それはAIが人の代わりに答えを用意してくれているということ。ようは第三者に答えを用意してもらっているだけ。本当に必要なのは「自分の力でオリジナルな答えをつくる」ことじゃない?たとえ失敗しようとも自分の言葉で語る勇気がないと、自分にとってほんとうに有意義な人間関係は築けないと思うんだよね。

じゃあ、どうやったら「キズつく勇気」が身につくのかだけど、転んで覚えるしかない!やっぱり?(笑)でも柔らか~い場所で小さくたくさん転んで慣れればいいでしょ。大人だって、赤ちゃんを見習って少しずつ喋り始めればいいんですよ。遠回りのようですが、本質的にはこれが一番近道なんじゃないかな。

まあでも、現状でも、将来的にも、日本人以外とコミュニケーションをとることに意義を感じていない人に英語を無理強いする必要は全然ないです。時間は有限です。どこで誰と有意義な時間を過ごすかは個人の自由なんだから、周りが変わっていくことを嘆くより、周りと一緒に自分も変化していく過程を楽しめるほうがよほど味のある生き方になるんじゃないかなと思います。これには英語の有無を問わず、「失敗する勇気」は持ってて損はないっしょ!